「幸せになる勇気」が教えてくれた、社会にとって大切な考え方

年末年始は、「幸せになる勇気」という本を読んでました。

本書は、アドラー心理学を解説している「嫌われる勇気」の続編で、嫌われる勇気では不十分だった実践的な部分までたっぷりと解説されています。

で、年始は書評を書いていたのですが、中々うまく書くことが出来ず、結局投稿がきょうになってしまいました。

幸せになる勇気のプロローグ

「幸せになる勇気」は、対話形式で内容が進んでいきます。前作「嫌われる勇気」で、青年はアドラー心理学にすっかり感化され、教育者としての道を歩んでいました。

アドラー心理学では、褒めることも怒ることも認めません。青年は、それを守り、今まで褒めることもせず、怒ることもせず、ただただその教えを守ってきました。

ただ、現実は上手く行かず、子供たちは言うことを聞いてくれなかったそう。青年はいつしかアドラーを捨て、良いことをした子を徹底的に褒め、悪いことをした子には徹底的に叱るという道を選びました。

しかし、ときは既に遅し。臆病者のレッテルを貼られた今、青年が怒っても、子供たちにその効力を発揮できなかったのです。

そこで、どうすればよいのか。青年はアドラーを捨てるべく、アドラー心理学に詳しい哲人の前でアドラーを捨てるか否かの対話が始まる――。導入部分はこんな感じです。

実は僕自身、以前の職場でリーダーとして新人指導やマネジメントを行っていたんですが、言うことを聞いてくれない人たちに対して、怒ってしまっていたんですね。ところが怒っても相手には響かない。それどころか不貞腐れたりして、状況はますます悪い方向へと進んでいきました。まさに本書に出てくる青年のようです。

後に嫌われる勇気を読み、怒ることの無意味性を知り、怒らないようになりましたが、問題の解決だけが出来ずに、怒りを無理に抑えようとするストレス、助けてくれない上司に対する不信感などが積み重なり、退職に至ったという経緯があります(退職理由はそれだけではないのですが)。

とにかく、嫌われる勇気だけでは実践的な部分の説明が少なく、青年のように「自分はどうするべきなのか」「どうあるべきなのか」がわからないままでした。

教育者とは何なのか

では一体、そういう立場――本書では”教育者”と呼ばれていますが、”リーダー”だとか”指導者”という言葉にも置き換えられると思う――に置かれている人は、どうあるべきなのか。青年は問いかけます。

すると哲人、教育の最終目標は自立だと答えます。

アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいという欲求、つまり「優越性の追求」を抱えて生きる存在だと考えます。

岸見 一郎; 古賀 史健. 幸せになる勇気 (Kindle の位置No.398-399). . Kindle 版.

教育の最終目標が自立であるのなら、教育者のやるべきことは、自立に向けた援助です。間違っても、強制的に勉強をやらせるなどという介入はやってはいけないと言います。

アドラー心理学には、課題の分離という概念があります。「これは誰の課題なのか?」を考え、他人の課題に土足で踏み入ることに反対しています。つまり、子供が勉強をするかしないかというのは、子供の課題であり、教育者は介入する余地など一切ないのです。

その上で、子供が勉強をしたいと思ったときには援助する用意があることを伝え、やる気のあるものには精一杯の援助をしてあげれば良い。というのがアドラーの主張であると解釈しました。

これについては反論のしようがなく、全面的に納得です。僕自身も他人にアレコレ強要されたことがありますが、無理にやらされたことにはやりがいもやる気も感じないので楽しく出来ません。それが仕事であれば当然、生産性が下がります。自らの意志でやる!という自立の考え方は、今の日本の社会にとっても、極めて重要であり、必要な考え方ではないでしょうか。

怒ってはいけない、褒めてもいけない。その理由とは?

物語は、アドラーが謳う「賞罰の否定」へと進んでいきます。

青年が教えている教室内では、子供が荒れ狂っているのだといいます。まさに僕が以前働いていた職場そのもの。

しかし哲人はそれでも「怒ってはいけない」と主張します。ただ、勘違いがないように説明しておくならば、アドラーは無法地帯を認めているわけではありません。じゃあどうするのか。それは、民主的な手続きによって作られたルールで解決しなければならないというものです。

教えることに叱責の言葉はいらない

どうして子供たちは悪いことをしてしまうのか。まず考えられる理由は、「悪いことだと知らない」からです。

知らないことを教えてあげる。このシンプルなことに叱責の言葉なんて必要ないですよね。

以前の僕はまず最初に「相手は悪いことを自覚していて、問題行動を取っている」とばかり思い込んでいました。でも、考えてみたら、僕が怒られているときはいつだって、「知らなかった」「わからなかった」「深く考えていなかった」ときばかりです。こんな状態で怒られても、「最初に言ってほしかった…」って思ってしまうでしょ? 他には少し理不尽だと感じたり。

相手を疑ってしまう関係では、相互信頼のない関係と言えるでしょう。そんな状態で、教育者の言葉を真摯に受け取ってくれるでしょうか。

まずは相手を信頼し、「悪いことだと知らない」という前提から考えなければ、相手は耳を傾けてくれないのです。

怒りは教育上なんら有効ではない

怒りが教育上有効であるとするならば、一度怒ってしまえばそれで解決ができるはずです。しかし現実はそうではない。何度怒っても解決しないことで溢れている。

一時的な効果を期待して怒るのか。自立に向けて対話するのか。教育上、どちらが有効であるのかは言わなくてもお分かりでしょう。

僕自身、何度怒っても解決しないということは身をもって経験していますから、アドラーと哲人の主張に反論の余地はありません。

読者の皆様の中に怒りで解決しようとしている方がいらっしゃるなら、もっと有効的で双方に利益のある方法で解決してほしいと願うばかりです。

支配欲の根源とは?

教育者であれば子供たちの自立を願うでしょう。青年も当然、子供たちの自立を願っていました。が、哲人に「実は自立なんて望んでいないのでは?」と言われてしまいます。

アドラー心理学は、縦の関係ではなく横の関係を推奨します。横の関係とは、教える立場も教えられる立場も対等だということ。

青年は縦の関係を築いているので、子供たちに自立され、対等な立場を築かれてしまったら、青年の権威は崩れ去ってしまいます。

なのに、子供たちが失敗すると、社会の批判は自分へと向かって降り注いでくる。責任を問われる。

どうすれば責任を問われないで済むか。それは支配することだと言います。

結局は、自分の責任にならないようにするため、自立させたくないという深層心理があるのです。支配するために、怒りという感情で屈服して押さえ込もうとしているのです。

これには自分もハッとさせられました。確かに、当時の僕が怒っていた理由は、責任を取りたくないというただその為でした。相手に無理やり言うことを聞かせれば、自分は責任を取らずに済む。その手段として怒りを使っていた過去の自分の心理を暴かれ、今はただただ後悔と羞恥心でいっぱいです。

褒めてもいけない

少し話を戻します。先ほど、子供たちは悪いことをしてしまうとき、「悪いことだと知らない」から、問題行動を起こしてしまうという話をしましたね。

当然、確信犯的に悪意を持って問題行動を起こす人がいるのも事実です。

彼らはなぜ問題行動を起こすのか。その深層心理には承認欲求があるようです。問題行動を起こし注目をあつめることで、自分が特別な存在であることを認めてもらいたいのです。

承認欲求が原動力であると、「褒められないのならやらない」「怒る人がいなければ問題行動も取る」といったことが起こります。「宿題をやったのに褒めてくれない。ならやらない。」というのでは、困ります。自立とは程遠い。他人からの承認を求め続けなきゃいけない人生は依存そのものです。

自立を促すためにも、承認欲求が原動力である状態を改善してあげなければいけないのです。

その自立を促すためにはどうするのか。それは特別でなくともあなたには価値があると教えてあげることだと言います。

人は生きるために働く。働くために社会を形成する。

話は仕事論へと進んでいきます。

人間はどうして働くのか。それは、生きるために働くという極めてシンプルな答えでした。そして働くために社会を形成します。

人間は一人では生きていけません。孤独だからという理由ではなく、生存レベルの話で生きていけません。生きていくためには必然的に、「分業」する必要があるのです。

分業するためには、人を「信用」しなきゃいけません。生きていく上で、信用しないという選択など出来ないのですから。

どのような仕事も等価である

哲人はこう語ります。

一国の宰相、企業の経営者、農夫、工場労働者、あるいはそれを職業と見なされることの少ない専業主婦に至るまで、すべての仕事は「 共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、われわれはそれを 分担しているだけなのです。

岸見 一郎; 古賀 史健. 幸せになる勇気 (Kindle の位置No.2390-2392). . Kindle 版.

これは興味深い見解でした。でも少し考えれば、論理的でアタリマエのことであることが分かると思います。

誰からも必要とされない仕事なんてものは存在しません。生きるためには仕事をする必要があり、誰からも必要としない仕事をしていては生きていけないのですから、その仕事はやめて、別の仕事をやらなきゃいけませんよね。仕事をやめるということは存続していない。つまり存在しないと言い換えられます。

専業主婦は確かに職業とみなされることが少ないですが、子供の世話をし、一人前の子供を育て上げることでいずれ立派な社会人を世に送り出す。これって、立派な仕事じゃないですか。

共働きの家庭で育つお子さんが立派にならないという訳では断じてありませんが、子供と接する時間が長ければ教えられることも多くなります。

どんな仕事であっても一つのことに専念し、生産性を上げることが最大の社会貢献ではないでしょうか。そしてその仕事一つ一つに優劣はなく、等価である。僕はそう思います。

幸せになる勇気 総括

書評を書くのには慣れておらず、また心理学(厳密に言えばアドラー心理学は哲学)という難しい学問を取り扱うので、自分の力が及ばず、完成度の低い記事になってしまいました。

ただ、今の自分の実力を精一杯出し切っていますし、アドラー心理学がもっと広まることを僕自身も望んでいるので、このまま投稿することにします。

そして、幸せになる勇気の総括ですが、嫌われる勇気を読んだだけでは、アドラー心理学を心がスッと楽になる魔法のようなものだと思っていました。ただ、幸せになる勇気を読んでそれは大きく変わりました。アドラー心理学は非常に厳しいことを突きつけてきます。勇気がなければ相当困難を極めることは確かです。

自分は勇気が足りない人間で、実践には絶望を感じています。例えば、僕は現在、外食の仕事をしていますが、必要とされているのは接客スキルです。僕は、お客様を怖い存在だと考えることがあります。失敗してクレームを言われないだろうか…などと心配をすることがよくある。これは、お客様を「待たせてはいけない」とか「怒らせてはいけない」とかそんなことばかりを考えているからです。要は自己保身ってやつです。

マニュアル的な接客をしている限り、責任はマニュアル製作者にある。だから失敗しても全面的な責任を負う必要はない。だからどうしてもマニュアル的な接客に固執してしまい、お客様の満足度も上がりきらない。

だからこそお客様にも家族や友人のように振る舞えたら、きっともっと幸せになってくださるという確信があります。

これは自分自身の課題でもありますが、これをいきなり実践するのは難しい。ただ本書ではそのためのアプローチを示してくれた。最終的にはここを目指して、まずは自分のできるマニュアル以外の心遣いから始めてみようと思います。

幸せになる勇気は、教育論・仕事論・社会論など、身近な生活に纏わることで話が進められていきます。現在の日本社会の実情は、アドラーの思い描く未来とは程遠いです。

ただ、アドラーはその思想を強要しません。自分で考える必要性を訴えかけているのです。それを考えるための方法、そして重要なことを本書では教えてくれます。

何が大事なことであるのか。今の日本社会に必要なことは何なのか。我々は何をしていくべきなのか。一緒に考えていきませんか?

この記事で紹介したことはごく一部に過ぎません。ぜひ本書を手にとって頂き、ご意見を聞かせていただければと思います。