豆腐メンタルを日本から排除しようという声があるなかで考えたこと

自分自身、豆腐メンタルでありながらも、日々クレームの対応にあたっている。

正当なクレームにせよ、悪質クレームにせよ怒られるのは本当に怖い。

叱責されるクレームの9割は、こちらに100%の非があるものばかりだ。

残り1割が悪質クレームと呼ばれるもので、実は正当な理由のお申し出のほうが圧倒的に多い。

正当な理由のクレームはこちらに非があるのだから怒られるのは仕方のないことであると思っている。

ただ、こちらが悪いとか悪くないとか関係なく、怖いものは怖い。

怒られるのが怖くてたまらない時がある。

「どうか怒らないでくれ…」

毎日、こう考えながら仕事をしている。

怒られて当然だと言えることに「怒られたくない」というのは、はっきり言って甘えだろう。それは分かっている。

だからこそ、僕は克服したいと考えた。

どのようにして克服すべきか。研究した結果が下記の記事である。

お豆腐より脆くて弱いメンタルをグッと強くするたった2つの方法

*過去の記事につき、現在と考え方は異なる部分もあります。

研究と努力によって、以前より大幅に怒りへの耐性はついた。

自分には余裕が生まれたから、僕と同じように困っている人へ向けて、こうやって情報も発信している。

僕は怒りに屈する人が出てこないような世の中になることを心の底から望んでいるのです。

しかしながら、悪いニュースを見てしまった。

女子高生が遅刻し、教師から叱責を受けたところ、過呼吸になり、救急搬送されたというのだ。

参考 新橋駅前で女子高生7人倒れる…遠足の集合時間遅れ謝罪中過呼吸にスポーツ愛知

Yahoo!ニュース上のコメント、5ちゃんねるについたレス、まとめブログへのコメント、Twitterの関連ツイート…。

どれを見ても、「メンタルが弱すぎる」「日本の未来が心配」といった、豆腐メンタルを排除しようとする声ばかりだ。

果ては「教師がかわいそう」といったコメントまであった。

僕からすれば、こういったコメントが多く存在することのほうがよほど心配である…。

正論を述べただけでは暗い未来に突き進む

僕は女子高生に批判すること自体を悪いことだとは思っていない。

僕なら怒られることを全力で回避するために遅刻しないよう早めに行動を取るからね。

遅刻は迷惑がかかるので絶対に避けなきゃいけないし、仮に人身事故等の不可抗力の場合は仕方ないが、それでも待たせている人がいる以上、決して良いこととは言えない。

だから批判はされて当然だろうと思う(不可抗力の場合は除く)。

ただ僕が言いたいのは、どれだけ正論であっても、追い詰められる人がいるということだ。

いくら自分自身に非があっても、怖いものは怖いのである。

それは確かに甘えである。

だから「甘えるな」と言いたくなるんだろう。それは分かる。

ただ、そう思うのであれば、どうすれば甘えなくて済むのか。恐怖を感じずに済むのか。教えてあげればいいと思う。

いや別に、教えてあげる必要はもちろんないけど、「日本の未来が心配」なんだったら、その未来を暗いものにするのではなく、明るいものにするために発信すればどうだろうか。

そうすればあなたの正論は、人を追い詰めるものではなく、人を助ける希望になる。

「日本の未来が心配」と言ってただ傍観しているだけでは、間違いなく暗い未来に突き進んでいくだけだから。

叱責とは丁寧な説明を諦めた安直な手段

最近、TOKIOの山口さんの件でも「加害者を擁護しても被害者を非難してはいけない」という意見がTwitter上で一部見受けられた。

僕はこれとは反対で、「被害者を非難しても加害者の擁護はしない」というスタンスだ。

僕は選択責任論というものを唱えていて、TOKIO山口さんの件で言えば女子高生が山口さんの自宅に行った時点で、わずかにも非はあるだろう。ということです。

自宅に行かなければ、事件が発生しなかった以上、僅かにも非はあるので、非難されるのは仕方ない。

ただ、不適切な行動を取った山口さんは何が何でも悪いのだから、擁護する余地はない。

だから被害者を非難しても、加害者の擁護はしない。という考え方を取っています。

今回の叱責によって女子高生が過呼吸になった件も同様、遅刻しなければ叱責されなかったのだから、僅かにも非は存在すると考えています(大事なことなので何度も書いておくが、不可抗力の場合は除く)。

だから女子高生が非難されるのは仕方のないだろう。

ただ、「教師がかわいそう」などという擁護がTwitter上で見られるのは謎でしかないのだ。

教育に叱責は必要か?

そもそも、教育に叱責は必要ない。一切ない。

丁寧に言葉で説明をすればよいじゃないか。

それが出来ないから、叱責に走ってしまうのです。

叱責は非常に安直なコミュニケーション手段だ。

屈服によって相手を操れるのなら、これほど楽なことはない。はっきり言えば無能な人でも出来ますから。

それに対して、言葉による丁寧な説明は、手間もかかるし技術も必要。有能な人にしか出来ません。

今回の件で言うならば、手間もかけたくなかったし、技術もなかったから、先生は叱責という手段を取ったのだろう。

 

しかし、そもそもこの叱責という手段、教育上有効的だろうか。

いじめの例で考えてみよう。

先生がいじめっ子たちを叱責したところで、いじめはなくなると思いますか?

大人のチカラに恐怖して、一時的に問題行動を辞める可能性はある。

ただ、先生の見ていないところでも辞めるかというと、それはまた別。

結局裏で「チクりやがったな、この野郎」などと因縁を付けられ、余計悪化してしまうのだ。

僕はいじめられた経験があるからこそ言えますが、先生の前でしか止まないイジメに叱責なんて対処は僕からすると迷惑でしか無かったわけです。

はっきり言って、叱責は逆にいじめを悪化させる手段でしかなかった。

要するに叱責とは、怒る人が居てはじめて機能するものだ。

怒る人がいなければ、不適切な行動は続く。

だからいつまでも誰かが怒っていなきゃいけない。

もし自発的に不適切な行動を辞めさせたいのなら、技術と手間をかけて先生と生徒が対話をする必要がある。

そうやって、不適切な行動はなぜダメなのか?を根本から理解させなければ、辞めるわけがないのです。

*これらについて詳しく知りたい方は、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」をお読みいただければと思います。

「いつも怒っている先生」がいる学校は、残念ながら良い学校とは言えないだろう。

叱責が教育上有効なのだとしたら、「いつも」怒る必要はない。

「いつも」怒っている理由は、叱責が教育上有効的でないことを示す動かぬ証なのだ。

 

教育レベルが低いから、問題行動を起こす生徒が増え、ますます叱責せざるを得なくなる。

あなたの通っていた学校は、こんな負のループに陥っていませんでしたか?

心配であれば感想を言うだけじゃなく行動しよう

日本の将来を本当に危惧しているのなら、「心配だ」などと感想を述べるだけでなく、行動したらどうだろうか。

現状は行動しない人が大半である。

僕は、暗い未来を予期していながら、明るい未来にするために行動をしない現状のほうが遥かに心配だなあと思うばかり。

感想を述べるだけで、豆腐メンタルの人はいなくならないよ。

世間の大半が「豆腐メンタルを排除したい」と叫べば、この人達の働く場所がなくなって、会社など自分の周りからは消えるかもしれない。

でもそれが豆腐メンタルの人たちにとって致命的な心の傷であることは覚えておいて欲しい。

つまり、豆腐メンタルを排除したい=労働者の不足、医療費拡大を容認することになるということ。

僕はこういう社会になることのほうがよっぽど心配なので、もっと相手に共感し、一緒に問題解決する方法を探せる社会にしたいな、なってほしいな、と思うばかりだ。

だからこうやって、ほんの僅かだけど声を上げているのです。

 

いろいろ論点がずれて、何が言いたいのか分からなくなったが、最期にこれだけ言っておこう。

どう考えるかは自由だが、排除しようとする動きは非生産的な行為である。

非生産的でも構わないのならそれで良いが、ならば「日本の未来が心配」などと矛盾めいたことを言うのは筋が通らないぞ。